インタビュー

【サッカー人インタビューvol.7】トレーナーの最前線から見たサッカー 元INAC神戸チーフトレーナー山田晃広

山田晃広 / Mitsuhiro Yamada
1974年生まれ。大手スポーツマッサージの治療院に入社し、2000年3月にスペインに渡西。
2003年夏にスペイン1部リーグ所属のラシン・サンタンデールのトップチームトレーナーに就任。
2004年末に帰国後、湘南ベルマーレ・トップチームのチーフトレーナーに。
2010年より、以前から経営に携わるロコケア スポーツマッサージで勤務。
澤穂希選手のコンディショニングをサポート。
INAC神戸のチーフトレーナーを経て、現在は成城のロコケアの経営に加え、なでしこジャパンの大野忍、近賀ゆかりのエージェントとマネージメント業務に携わる株式会社ザスタジアムの経営にも携わる。

 

他人と「同じ」で満足しない

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澤穂希選手のコンディショニングサポート
それまでの経緯についてお聞きします。

Q. 高校卒業後、大手マッサージスポーツ治療院に入社したきっかけとは?

A. 22年くらい前、今だとスポーツ団体や競技に競技者・指導者プラスでフィジカルコーチやスポーツトレーナーが居ると思うんですけど、当時はまだそれが居ない時代で。

でも、その時代の先駆けというか、なんとなくそういうのが始まりそうな感じはしていた。なので、当時18歳だったんですけど、そのスポーツ選手をサポートするという特殊な仕事にすごく興味を持っていました。

入社した会社は、柔道やレスリングで「スポーツトレーナー」という言葉を衣食住にやってる一番最初の治療院だったので。(高校を)卒業してすぐ飛び込みました。

 

Q.  その後、一度就職した大手スポーツマッサージ治療院を辞め、スペインに渡られました。スペインに渡られた経緯について聞かせてください。

A. 最初3~4年程早稲田大学サッカー部を担当させてもらった後に、ヴァンフォーレ甲府(J2)に携わったんですが、その中で外国人との伝手が出来たんですね。パラグアイ人フィジカルコーチとか、ブラジル人選手とか。

そういう人達の話を聞くと、ちょっと日本のサッカーは違うんだなって感じましたね。「違う」というのは、例えば「フットボールとサッカーは違う」という言い方をしたり、レフリーのジャッジ、トレーニングが違うと。あと選手がサッカーにかける思い!…そういった、いろんな事がなんとなく「違う」という情報が入ってきて、当時24歳だったんですけど、「早く海外に行きたいな」という思いが生まれた。

アメリカという手もあったんですが、今もあるNATAというNational Athletic Training Association(全米資格)を取りに行ってる人が当時結構居たんですね。でも自分としてはみんながあまり行かない国に行ってみようかなという気持ちがあったので、スペインに渡りました。

 

Q. スペインではラシン・サンデルタール(リーガ・エスパニョーラ)のトレーナーとして活躍されましたが、そのスペイン1部リーグのチームにはどのようにして就くことになったのですか?

A. 渡西最初の3年間は3部チームでトレーナーをしました。1部ではないです。しかも1年目は、スペイン語が全く話せなかったので、「最初の1年は無償で良いですよ」と言ってその無名チームの高校生チーム(ユース)でやらせてもらいました。

ところが、当時のスペイン3部のユースって、道具が何も無かったんですよ。ですから、自分で貯金を崩してテーピング類を買って。自分のお金ですよ(笑)。

それで翌年トップのトレーナーが空席になったので、私がそのまま上がらしてやらせてもらったのが2年目のシーズン。やらせてもらえたのは、備品の件もあっての事でした。

で、3年やっていく中で、問題のスペイン語がクリアしてきた時、「1部チームのキャンプに1か月練習で参加してみないか?」とお話しをもらったんです知人から。

その1部チームというのがラシンだった。

1か月間でしたけど、1か月間ほんとに「自分が出来ること」を全力でやりました。例えば、誰よりも早く行って掃除するだとか、雨が降ってスパイクとか変えそうかなと思った時にスパイクとタオルを用意しとくとか。水も、夏の中冷えていないボトルをそのままドンと出すスタッフも多いんで、冷やしてから出すとかほんと普通の事を普通に。

そしたら選手たちが会議してくれて「YAMAを採用しようじゃないか」と選手の方からプレゼンを会長に上げてくれた。会長もこんだけ選手が会議してますからNOとは言えなかったんでしょうね。

そこはわかりませんが(笑)。

 

Q. ラシン・サンタンデールでやられた中で印象的なことって何かありましたか?

A. スペインでは皆知ってるチームだし100年の歴史もあるし、やっぱり1部と2部、僕が居たのは3部ですけど雲泥の差でしたね。私の給料も他に何もしないで生活が出来る。それまではアルバイトとか何かしないと生活が出来なかったけど、やっとそこで初めて「プロ」、本当のプロのスタッフになれたんだなという実感が持てたのはありました。

印象に残ってるシーンは、たくさんありますけど、ラシン契約の5年前にFCバルセロナのスタジアムで上から観戦中、「いつかは下から見上げられるような人間になりたい」、要は「プレー側としてスタジアムを見上げたいな」ってずっと思っていた。その5年前に思っていたことが実現したんだなぁと実感した時ですね。

 

Q. ラシンで働かれるまでの3年間、満足な収入が無かったとのことですが、その中でモチベーションをどうやって維持されてたのですか?

A. 目標設定を1個上に置いとくんですよ。「“来年”ここ行きたい」とか、なりたい具体像を創っておく。私が最初無給でユースのトレーナーやってた事も別に無駄な投資ではないと思っていて。やっぱり他の人がやらないことをやってるところを誰かが見てくれてたりとか、ユースをやって次はトップチームに行くんだっていう思いがあったので、トップチームに行くための今は準備だと思ってやっていた。

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Q. 帰国後湘南ベルマーレ、その後にINAC神戸でチーフトレーナーとして活躍されて、今も澤穂希選手のコンディショニング担当としてもご活躍。澤穂希選手のコンディショニング担当になった経緯について聞かせてください。

A.  INACに携わったのは2011年W杯の前なんで2010年、私がベルマーレを辞めた翌年くらいかな。あるチーフから神戸に女子のチームがあってトレーナーを探してるって。でも、その時は全然チームも知らないし、まだ澤選手も来てない時代で川澄選手ぐらいしか居なかった。川澄選手もまだ大学を出て間もないくらい。

女子サッカーって今もそうですけどスタッフをたくさん抱えらえる程経済的余裕はない。でも最低限コンディションを見れるスタッフを誰か出してほしいとのことだったので、うち(山田氏経営のLOCO・CARE)のスタッフを1名派遣して、東京に来る(INACのアウェイ戦)時に私が試合を見て1か月に1回神戸に行って練習見たりとかっていうのを1年間くらい続けていました。

その翌年に澤選手が移籍してくるんですけど、その時はまだW杯の全然前だったので別にそんな大スターという感じでもなく。彼女も自転車で練習に来てましたし(笑)。1選手として通常のようにしっかり見て、私も気を遣うことなく接していました。

なのでW杯以前から見てきた中で、コンディションの関係で少しずつ帯同するようになって、今度はワールドカップが終わってリーグ優勝もして。(2012年ロンドン)オリンピックも行くという時に澤選手がある病気になってしまって、それなんかを二人一緒に克服しながら少しずつ信頼関係が築けてきたというのはありますね。

 

スペインで学んだ「会話術」

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トレーナーというお仕事についてお聞きします。

Q. トレーナーをやっていてやりがいに思うことはありますか?

A. 私は18歳からこの世界に入って、資格を取ってからは約20年経つんですね。で、取得前と取得後、またその時代ごとに、そのやりがいって結構違うんですよ。

それでも、18歳から共通して今でも思うやりがい、もう一番は試合に勝つこと!

私達はピッチには立てないですけどスタッフとしては戦えますので。毎週末、試合があるって時にそこでアドレナリンが最大限出るって、やっぱり他の職業にない一番のやりがいだと思います。

やっぱり公式戦で、タイトルかかってなかろうがその試合で勝ちきるって事が一番のチーム責任ですし、そのために採用されているスタッフだとも思っているので。

プロの現場で、それで自分の報酬が変わってきたりっていうのはやっぱり他の職種にはない面白い部分ではあると思います。

 

Q. トレーナーとして大事にしていること、意識していることを教えてください。

A. 責任だと思います。選手のコンディション管理の責任。選手が30人居たら30人の責任がある。誰がどうして怪我をして誰がどうして風を引いているのか。それに対してどういう対策をしたのか。コンディションに関わる全ての責任はトレーナーにあるべきだと思う。プロの場合はですけどね。

プロとしてスタッフに入っているからには、選手がこうゆう状態でこうだっていう情報はやっぱり持った方が良い。レギュラーメンバーの場合は尚更細かい点まである程度把握する。それを公表するかどうかは、こっちの責任で必要以上のことは監督にも話さないし。

難しいのはその「情報を集めるテクニック」と「どう情報を表に出すか」の駆け引き。

「やっぱりこの人に言いたくねーなー」だったら情報は出てこないので、引き出させる会話のテクニックは要る。そして、例えば、昨日監督にあんなこと言われてムカついたって言ってた事、これを監督に言う必要があるかと言われればないわけで(笑)。だけど、昨日一言監督から言われたことが凄く嬉しかったっていう事は、監督自身が知らなかった時、上手いタイミングで出してあげればプラスになるんですよ。

「あ、そんなことあいつ言ってたの?じゃあ、もうちょっと教えてやろうかな」ってなる。

その辺のテクニックが要りますし、そこが実は一番難しくて一番繊細なところです。

 

Q. そのテクニックはスペインで学ばれたものなんですか?

A. そう!スペインで学んだことですね。

スペインに行っていた時、向こうのトレーナーより私の技術の方が絶対に強いと思ったし、私の方が絶対に出来るって思った(笑)。でも、選手が本当に信頼してるところは私じゃないんですよ。

それは、私が外国人だからっていうことではなくて、やっぱりその「会話」が上手なんですね。

本当の信頼関係っていうのは、技術や知識をパンパンに膨らましたところで出来るものでもなくて、本当に選手のことを思って会話を目線を合わしていろんな会話のテクニックを使いながらやってあげるっていうのは、凄くその時学びました。

 

トレーナーから見た日本サッカー

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Q. 特にスペインと比べた場合、「日本のサッカー事情」に何か思うことはありますか?

A. 一番よく思うのは、どこのクラブにも名物トレーナーや名物ドクターが居たり、名物ホペイロが居る。こういう人たちはチームに就いてから50才とか60才になっても現役でやってらっしゃる。

日本の場合はクラブ愛よりも経済的な事情がすごく多くて、チームの予算が無くなったら削りますだとか、逆に予算増えたんでスタッフ増やしますとか。

トレーナー側も、“もうちょっと良いオファーがあったんでここのクラブ辞めてあっちに移ります”という事が凄く多いんですよ。それは私が良い意味でステップアップしていくって言ったのとはちょっと違って、同じカテゴリーの中で、経済的条件が理由で動かざるを得ない状況っていうのが多い。

FCバルセロナのトレーナーなんかはひい爺ちゃんの代からやってますから。ひい爺ちゃん、お爺ちゃん、お父さん、今はその息子も。この4代、創立の時からですよ。

これを考えると、創立者の人たちが歴代の選手、歴代のスタッフを全員知っているわけですよ。これがクラブの歴史になっている。選手に、あの時のマラドーナのプレーはこうだったとか、あの時のクライフのあの一言を話せる人が居るわけですよ。こんな財産はない。

これが日本だと、昔スター選手があるチームに居たとしても一緒にやってたスタッフは誰も居ないんですから。クラブの財産としてどうなんですかって思う。

 

生きるエネルギー

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Q. トレーナーとしてサッカーに携わってこられた中で、“サッカーに携わっていて良かったな”と思われた瞬間ってありますか?

A. それはたくさんありますよ!

それはもう、これからもそうですけどサッカーがない人生はまああり得ないですよね。

「サッカーのない人生なんてなかった」っていうインタビュー受けたことがあるんですけど、まさにその通りで。サッカーがあるからこそ、サッカーがあったからこそ今までの貴重な経験が出来ている。

 

Q. 「サッカーの持つ可能性」とは何だと思いますか?

サッカーは…そうだね、私が思うのは、エネルギーとか活力だと思うんですよ。

プレイヤーもエネルギー出してサッカーやるし、サポートスタッフも、エネルギー・活力を使ってやる。選手応援するにもエネルギー要るし。観てる人も、そこからエネルギーをもらう。で、そのもらったエネルギー・活力を今度は自身の仕事に注ぐわけだから。

っていうなんとなくその、「伝達」。「エネルギーの伝達」をしているような感じかなあと思ってます。

名称未設定

 

山田晃広さん、ありがとうございました。

 

 

WorldFut インタビュアー

永井千晶、朝倉悠、堀野清華、小池隆太

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