インタビュー

選手と監督を繋ぐ ザックジャパン通訳 矢野大輔さん【サッカー人インタビュー企画vol.2】

選手と監督を繋ぐ ザックジャパン通訳 矢野大輔さん【サッカー人インタビュー企画vol.2】

矢野 大輔 Daisuke Yano
1980年生まれ。
セリエAでプレーするという夢を抱き、15歳でイタリアに渡り、トリノ(セリエAのチーム)の下部組織でプレー。22歳であトリノのスポーツマネジメント会社に就職し、デル・ピエロを始めとするトップアスリートのマネジメントや企業の商談通訳やコーディネートに従事する。
2006年から2008年にトリノに所属した大黒将志の通訳となる。
20109月、ザッケローニ日本代表監督就任に伴いチーム通訳となる。
ブラジルワールドカップ終了後、監督退任とともに代表チームを離れた。
通訳就任からザックジャパン解散までの1397日間に及ぶ活動が綴られた著書『通訳日記』が1127日に出版された。同書は、矢野氏が19冊にのぼる大学ノートに記していた通訳時代の日記をもとに作成。総合スポーツ雑誌「Number」での連載が、書籍化された。続いて1月13日には著書『部下にはレアルに行けると説け!!』が出版される。
矢野大輔オフィシャルウェブサイト Daisuke Yano
http://daisukeyano.com

矢野大輔1

 

デル・ピエロに憧れイタリアへ

 

Q.どうして15歳でイタリアに渡ることを決断したのですか?

1994年、僕が14歳の時に三浦知良さんがイタリアのジェノアというチームに行ったんです。それでその時に『イタリアの映像』、『サッカーの映像』というのが日本にも届くようになって、それはハイライト番組だったのですが、深夜の時間帯に見ていて「すごいな」と思いました。当時僕が中2の冬の11月とか12月にそういったものを見ていたのですが、デル・ピエロという選手がいて、それはちょうど(デル・ピエロ選手が)若手で出てきた時だったんですね。それがすごく上手くて。そういった映像を見ていたら、イタリアへの憧れがものすごく強くなっていきました。ある日、サッカー専門誌を見ていたら、『イタリア留学』という大きい広告が載っていて。それで「ああ、もうこれは行くしかない」と思って、親に相談してみたというのがきっかけです。


Q.イタリアへ渡られる時やはり親に反対されましたか?

もちろん最初に母親に言った時には反対も何も、14歳の中2の子が「イタリアに行きたい」って言っても、「いやいやいやいや」という感じで。普通の親なら「とりあえず高校行ってから考えなさい」とか言いますよね。うちの親も一緒でした。だけどやっぱり自分の中で「行きたい」という気持ちが強かったので日々、母親を口説いたりとか、どれだけ行きたいのかっていうのを説明していました。時にはパスポートも勝手に1人で取りに行きました。そういう誠意というか情熱を見せることでだんだんと親が納得してくれたのかな、とは思いますね。


Q.22歳というちょうど私たちと同年代で、何を思い『イタリアに残る』という大きな決断に至ったのですか?

経緯を話すと2002年、僕が22歳で日韓ワールドカップがあったんです。それで、イタリアのデル・ピエロ選手が日本に来るということで、デル・ピエロ選手のマネジメントの人から「デル・ピエロ選手の家族を面倒見てくれないか」と頼まれました。つまり選手は毎日練習したり試合したりと忙しいのですが、家族は時間を持て余すわけですよね。
その時間を観光案内をしたり、お世話をしてくれないかというアルバイトを引き受けたんです。それを1ヶ月やった後に、正式にデル・ピエロ選手のマネジメント事務所に就職することになるんです。(イタリアに残る決断をした)きっかけとしては日韓ワールドカップの時期にそういった仕事があったというのが大きなきっかけです。ちょうどサッカーも22歳ぐらいになると、プロになる子はもちろんなっていたので、だんだん「もしかしたら自分は厳しいのかな」ということも感じていましたし、まあそういうタイミングも重なって自然と。徐々にですけどね。急に切り替えたわけじゃない。
だんだんと自分の仕事の比重が多くなっていったという形ですね。なぜ日本で就職活動をしないで、イタリアに残って生きていく道を選んだのかというところは、冷静にその当時自分が置かれていた状況を分析したんです。つまり自分は中学の途中からイタリアに行ってますから学歴もないですし、自分でできることといったらイタリア語を喋ることしかないような状況でしたので。そういう意味でやはり「自分の強みを生かす、もしくはそれを育てていかないと」と思い、イタリアに残ったということですね。

矢野大輔2
Q.どのような経緯で、マネジメント会社でのお仕事から通訳というキャリアに変えたのですか?

デル・ピエロ選手のマネジメント事務所にいたんですけれども、マネジメント業だけではなく会社の業務の一環で、例えば商談での通訳など日本の企業とイタリアの企業を繋げるというものもありました。だから厳密に言うとマネジメントから急に通訳になったわけではないのです。通訳業務というのは22歳で就職したときから続けていたことなんです。サッカーの通訳という意味で初めてやったのが、大黒選手(2006年から2008年にトリノに所属。元日本代表。)の通訳ということなんです。あとは日々やっていたこと。わかりやすく言えば、日本の自動車メーカーとイタリアのデザイン事務所が共同プロジェクトで「車を一台つくります」と。その間に入っているのが僕でありうちの会社だったりするので、それが自動車からサッカーになっただけの話です。別に切り替えたとかではなくて業務内容がサッカーというものになったということですね。

 

感情を共有する

 

Q.『日本人とイタリア人の思考の違い、溝をスムーズに埋める』という通訳のお仕事をする中で意識されていたことはありますか?

例えば日本人というのは皆さんも想像できるかもしれませんが、勤勉で、どちらかというと事前に計画を立てて物事を進めていく仕事のスタイルを好むというか。そういうのがスタンダードなのが日本人。イタリア人の場合はある程度のプログラムは決めるんだけど、やっぱりその場でのひらめきとか自分の直感とかも大切にするというのがイタリア人の仕事の進め方です。では具体的にその違いでどういうことが起きるかというと、急に仕事の内容が変わるとイタリア人は結構臨機応変に対応できるんですけれども、日本人の場合は傾向としてスムーズにいきづらいというのがあります。もちろんその逆もありますよね。イタリア人はきちんと計画立てたことを遂行しにくいというウィークポイントがあります。そういう「そういった文化なんですよ」ということを丁寧にイタリア人に伝えるし、日本人にも伝えるし、その中で歩み寄る妥協ポイントを探さなければなりません。要は「双方の文化であって悪気はないんですよ」ということですね。「結局はチームをよくするためにやっていることなんですよ」ということをベースに、それぞれの仕事のやり方を説明していって徐々に慣れさせていくというか、埋めていくようなことをやっているわけです。


Q.『通訳をする上で、単純に言葉を運ぶだけでなく、監督と同じ温度感を心掛けている』とのことですが、具体的にどのようなことなのでしょうか?

例えば監督がイライラしていたら「イライラしてるな」とか。監督が怒らなければならない時にはそれ相応のトーンで言わないといけませんよね。(選手は)もちろん怒られているのは分かるんですけど、きちんと監督の想いまで伝えなければならないというのはあります。そういうエピソードでいうと、ワールドカップが終わって最後の1日に監督が、チームにお別れを言うというミーティングがあったのですが、その時に監督が感情を表に出しました。それを伝えるというところはまた単純に言葉だけで伝えるだけじゃ味気ないものになってしまうけれど、そういう感情が伝わることでみんなもその感情を共有するということができると思います。あとは、監督が満足している時やみんなを思いっきり褒めたい時には、やっぱり思いっきり褒めてあげる感情で話すことで選手たちもより充実感を覚えると思います。


.矢野さんにとって『選手と監督との間を取り持つ通訳としてのやりがい』というのはどこだと思いますか?

やりがいを感じるのはやっぱり『結果が出たとき』ですね。チームの勝利の時には、少なくとも自分はマイナスになっていないと感じられる瞬間でもあるので、そういう意味ではやっぱりチームが勝った時。例えばアジアカップで優勝した時とか東アジアカップで優勝した時とか。あとはワールドカップで予選突破を決めたタイミングというのも凄くやりがいを感じながら通訳していました。

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通訳という存在

 

Q.ザックジャパンの中で通訳として監督の指示を選手に伝えるということ以外に、果たそうとしていた役割はありましたか?

基本的には通訳なので『コミュニケーションを円滑に進めること』がやるべき仕事ですし、そこが存在意義だと思います。じゃあどういうことをしなければいけないのかということを考えると、『監督の想いをより深く知る』ということや『選手の想いをより深く知ること』、また選手の『性格』や『特徴』、『傾向』をより把握することが大切だと考えていたので、監督と選手とできるだけ会話をし、情報収集を行なっていました。

 

Q.ワールドカップの選考後、監督からの依頼ということで、惜しくも選ばれなかった選手に直々に電話されたということですが、選手にはどのように伝えようと考えていたのですか?

もちろん通訳も結局は人間なので、別に僕に感情がないわけではないんですよね。なのでやっぱり…残念ながらメンバーに入れなかった選手たちの気持ちを考えると凄く心苦しいし、だけど業務として監督の「ありがとう」という感謝の気持ちをしっかりと伝えなければならないという仕事がありましたから。そういう意味では、選ばれなかったメンバーの気持ちを汲みながらも「きちんと監督のありがとうを伝えよう」と決めて電話をしましたし、別にその電話で僕がどれだけ慰めようが選手は心が休まるわけでもありませんし。そこで僕が何を言おうがワールドカップに一緒に来れるわけではないから、そこは多くは語りませんでしたし、気持ちは十分に向こうに伝わっていると思います。なのでシンプルに「監督が本当に感謝しているよ」、「今までありがとう」ということを伝えましたね。

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ザックジャパンで通訳として活躍されていた4年間、ずっとこのペンを使い日記を書いていたそうです。日本サッカー協会のもので、理由は「書きやすいから」とのこと。また、『通訳日記』で見られるように、毎日細かくノートに記し、すぐになくなってしまうので、10本ほど持っていたそうです。

財産となった4年間

 

Q.今まで異なった様々な形でサッカーに携わってきた中で「サッカーに携わっていてよかったな」と思える瞬間はありますか?

共通して言えることは、サッカーってチームスポーツなので人といることが好きになったり、人と『喜び』や『悲しみ』、『怒り』といった感情を共有することができます。そう感じられた時サッカーをやっていてよかったと思います。例えば今でもイタリアに沢山友達がいますけれども、そのほとんどが元チームメイトや一緒にサッカーをやってきた仲間です。マネジメントをやっていた時も、一流選手の近くにいることでサッカーの素晴らしさというか奥深さがより分かるようになりましたし、そのメンバーや友達とはいい関係で今もいることができています。もちろん通訳でやってきた4年間は凄い財産になっていますし、選手とも監督とも友達というか、いい関係でいます。このくらいの歳になると普通に知り合ってすごく仲良くなるとか関係が深くなるとかは昔に比べるとなかなか少なくて、そういう中でサッカーという競技を通じて、一緒に感情を共有することですぐ仲良くなれるし凄く深い仲にもなれる。『友達が増えたこと』とか『人と一緒にいることが苦じゃない』とか、そういうところがサッカーのいいところかな、と思います。

 

夢を叶えることができた現在、そしてこれから

 

Q.実際にセリエAや憧れのデル・ピエロ選手に携わり、通訳としてワールドカップに出場され夢を叶えられた、その要因は何だと考えますか?

『自分の好きなことをやり続ける』という大切さは絶対あると思っています。長く諦めないでやっていると、誰かがこう「助けてあげよう」と思ってくれたりするので本当に好きだったら諦めないでやることが大事だと思います。そうすると自然と周りの人が助けてくれると思います。

Q.矢野さんで言うと、やはり『サッカーが好きでずっと諦めずに続けてきた』からということですか?

そうですね。やっぱりサッカーが好きだからサッカーに関わる仕事に就きたいというか、そういった想いを持ち続けてきたからできたのだと思います。あとはどこで何が起こるか分からない。例えばザッケローニ監督とはトリノで出会ったのですが、そこで「人間的に変な奴じゃないな」と思われたからこそ、その後ザッケローニ監督が日本代表の監督になった時に呼んでくださったと思うので、人として礼儀正しくすることは凄く大切だと思います。

Q.日本サッカー協会のB級指導者ライセンスをお持ちだということなのですが、今後のキャリアプランを教えてください。

僕の場合(以前勤めていた)マネジメント事務所の社員として籍は戻してあるので、今は一応会社員ではあるんですが、日本代表の通訳をやって、その中で『サッカー通訳者の技術向上』だったり『地位向上』っていうのが必要だと僕自身は考えています。これはあくまでライフワーク的なことですけれども、例えばJリーグのクラブの通訳さんや元日本代表の通訳さんとできるだけ情報交換をして、共有する。「通訳というのはこういう仕事なんだ」、「こういうことに気をつけなきゃならない」とか、これからサッカー通訳を目指す方々に、最低限の教科書やガイドラインみたいなものを残せたら、と思っています。なぜかというと僕が通訳になった時、誰も教えてくれる人がいなかったからです。独学でやっていくしかないという所が凄くおかしいな、と感じたのでそういったものをライフワークとしてやっていければいいなと思っています。

Q.あくまで通訳に関わるような仕事がメインということでしょうか?

そうですね。監督業に関しては、やっぱり4年間ザッケローニさんという素晴らしい指導者の下で勉強することができました。そういう意味で英才教育を施してもらったという自負もあるので、教わったことを今後は生かしていきたいなと思っていますが、具体的に「監督になりたいか」という所はまだ考えていないです。

『無限』

 

Q.矢野さんの考える『サッカーの可能性』とは何ですか?

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『無限』

僕が実体験として日本からイタリアに行って、言葉も分からない中でサッカーをやっていたら沢山友達が増えたし、それから15年、20年近く経った今でも友達でいられているわけですよね。それはサッカーというツールがなければ到底叶えられなかったことだと思います。皆さん(WorldFut)がやられている活動を考えても、向こうの子どもと遊ぶとなれば、ボールがあれば凄く仲良くなるし、楽しい気持ちになれるし、そんなにお金がかからないでできるものだとも思います。例えば僕が今、全く知らない国に行ってサッカーをやると言ってサッカーをすれば、その後飲みに行ってご飯を食べに行って、ともなれますしね。そういう意味ではサッカーは「無限の可能性を秘めている」と思いますね。

矢野大輔6

矢野大輔さん、ありがとうございました。

 

 

WorldFutインタビュアー

蔵持優樹、堀野清華、朝倉悠、岩瀬美南海

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